「体に任せるということ」 若生未来

 

●韓競辰老師来日講習会

韓氏意拳を習い始めて間もなく一年になる頃、韓競辰老師の講習会を初めて受講しました。
お会いする以前に、韓老師のインタビュー記事を拝読したことがあります。
競争社会では直接役に立たないと辺縁に追いやられながらも、あくまで「生命とは何か」
「純粋自然とは何か」を探究し、伝え続けてこられたことに胸を打たれました。

なんてパワフルで、なんて足が軽いのだろう……。
これが、初めて韓老師を間近で拝見したときの印象です。
「動物の生存の第一条件は、足が自由に動くこと」という講義中の言葉を、そのまま体現
しておられました。

講習会は実技ばかりでなく、お話も豊富です。
韓氏意拳に通底する根本思想、状態が何より大事であること、運動の原理がどういうもの
であるのか――。

中でも「現実の問題に立ち向かわないで瞑想しても、目を開ければ変わらない世界がある
だけ。それで真の安らぎを得られるでしょうか」という言葉がズシンと響きました。
本当のものを求める姿勢が、言葉からも全身からも伝わってきました。

一日目の拳学講習では、午前と午後の二コマで、初級教程の最初から最後までを一挙にや
り通しました。
その場ですべては消化しきれないほどの内容を注ぎ込まれた感じです。
一度に抱えきれないほど多くのものを手渡され、韓老師に一言お礼の挨拶をして帰路につ
いたのでした。

熱い余韻がしばらく続きました。
日本で韓氏意拳を教えている先生方も、韓老師から多くのものを受け取り、何年もかけて
血肉にして、私たち生徒に伝えてくださっているのだと思いました。
先生が教えを受け継いだ師に私もお会いすることができて、嬉しかったです。


●体に完全に任せる

韓老師来日講習会を受けた直後の東京講習会で、「体に完全に任せる」というキーワード
をいただきました。

重要なのは、体に任せる中でも主体(私がここにいる感覚)を放棄しないこと。
抱式の姿勢を保ち、先生が私の手を上向きに押すと、少しずつ手が上がっていきます。
「それは放棄しすぎ」と言われました。

完全に任せているとき、一方向から押されても体は全方位的な対応をしています。
実習を通じて、そのことを確かめました。

しかし、日常生活あるいは稽古の中で、私は体に任せられている感覚を正直あまり持てて
いません。
自分の身体感覚とまだまだ結びついていないのだと思います。
講習で先生が話してくださったことはとても腑に落ちるのですが、それを本当に体得する
ことの程遠さも同時に感じました。

「体に任せるって、どういうこと?」
それは難しいけれどすごく大事なことに感じられ、私の中に長く問いを残しました。


●裏に座る練習

基礎歩法訓練を習うとき、「裏に座る」というポイントを教わりました。
私が、普通に真っすぐ立っていると思う位置よりも、かなり後ろ寄りです。
この姿勢を保つのは慣れないうちは大変ですが、足腰の安定性が高くなります。

自宅で歩法の練習をしばらく続けました。
裏に座る際の注意点を気にかけて行っていましたが、動くと姿勢が崩れやすく、なかなか
教わった通りにはいきません。

そこで、歩法以前の型に戻って、裏に座る練習を続けることにしました。
これまで練習をやってきた感覚とはずいぶん違います。
始めのうちは、脚に軽い筋肉痛を覚える日々が続きました。
それまでの練習では、脚が十分に使われていなかったことがわかります。

形体訓練の前跪を練習するときにいつもぐらついていたのが、裏に座って行うとぐらつか
なくなりました。

平歩で裏に座る練習にある程度慣れてきたところで、歩法の練習を再開したのです。

この「裏に座る」は、その後の講習会でも繰り返し取り扱われ、武術の学習全般を通じて
最重要と言ってもいい基盤になりました。


●自分の癖を外す

私がまだ韓氏意拳を始める少し前、右膝に軽い痛みが出て、それが数か月にわたって続い
たことがありました。
いったんは治ったのですが、その後もときおり再発することがあります。

少し痛みが出たときは、稽古中に「裏に座る」がちゃんとできているかを改めて見直しま
した。
すると、特に新しく習ったばかりの練習をしているときに、座った状態が伴っていないこ
とに気づきます。

稽古だけでなく、歩きや階段の昇り降りなど、日常動作にも目を向けるようにしました。
そこで見えたのは、膝頭を前に出す癖と、下半身がついてこないまま上半身から体を前に
出す癖です。
これらは、裏に座る指導を受けたときの「そうならないように」という注意点でした。

そうして体の動きを見直しながら過ごしていると、膝の痛みは次第に治まってきます。
自分では癖だとも認識していない日常の癖が積み重なって、体の不具合という形で表れた
のかもしれないと思いました。

構造に無理があると体に任せられないと聞きました。
だとすれば、体がもっとも能力を発揮できる構造を知り、身に付ける必要があります。

武術の習得は、自分が知らず知らずのうちに身に付けてきた癖に気づき、それらを一つひ
とつ取り除いていく過程でもありました。


●指先の向きを把握する

歩法の次に習った基本拳式では、指先を常に真っすぐに向けることが課題でした。
なぜ真っすぐに向けていなければならないのかについては、攻防の場面を想定した説明を
いただきました。
目で見ながら確認するのでなしに、指先の向きを把握するのは難しかったです。

手を回す速度を速くしたりゆっくりにしたり、手が下に降りきったところで止めてそのと
きの指先の向きを見て確認したり、いろいろ試しました。

そのうち、指先が真っすぐで手の高さが適切な位置にあるとき、手首は無理な力がかから
ず楽であることに気づいてきます。
試しにあえて指先の方向を逸らせて行ってみると、肩・肘・手首に力みが出て、腰の安定
性がなくなることがわかりました。

今は、他の部分との繋がりが感じられ始めてきたところで、指先を常に正確に真っすぐ捉
えられているかどうかは、まだ自信がありません。

指先の稽古一つとっても、それは「いつでも動ける状態であること」に行き着くのだと感
じました。


●できない自分との対面

稽古を続けているうちに、学習段階が進んで面白さが増していく反面、もっとも基本的で
肝心なところができていないと気づかされる場面が出てくるようになりました。
ですから私は、ここまでの道のりで一直線に昇っている感じがしません。
むしろ、降りていくような感じがしています。

大晦日の講習会で「肘がない」と指摘され、ああ自分はまだわかっていないのだとショッ
クを受けました。
けれども、そうしたショックが私は嫌ではありません。
今その部分で体と通じ合えていないという認識が得られるからです。
それは逆に、通じ合うためのきっかけに変えることができると思います。

「できているつもり」「わかっているつもり」が取り払われると、等身大の自分が見えて
きます。

昇っている感じがしないとき、足元には、当たり前にありすぎで見過ごしてしまっている
体の本質がたくさん埋もれているはずです。
そういうものを、もっとていねいに拾い集めていきたいと思いました。


●新年を迎えて

年明けを境に、稽古スタイルが変わりました。

これまでは、習い覚えた型をみな均等に練習していました。
気持ちはどちらかといえば、新しく覚えたことを消化するほうへ向いていました。

でも最近は平歩の練習に絞り、その中でも主に站椿、站椿の中でも特に挙式と抱式という
ように、初歩の型を重点的に行うようになりました。
進むよりも戻るほうに舵を切ったのです。

もう一つは、農夫歩で裏に座る稽古に取り組んでいます。
形はシンプルですが、ものすごく大変です。
ここは土台のところだと感じるので、文字通り腰を据えて体と向き合ってみたいです。

体に任せるとは、どういうことでしょうか。
それは、体との信頼関係を結ぶとも言い換えられると思いました。

体に任せられるようになるには、体の構造・働きを知ることが大事だと教わりました。
とはいえ、体の全部を知りつくすことは一生かかってもできそうにありません。
わかろうとするほど、わからなさを突きつけられます。

それでも、知ろうとすること、関心を向け続けることが大事だと思いました。
相手のことを知りたいと望み、問いかけて、応答を聴き、こちらから働きかけることで信
頼が芽生えていくのは、人との関わり合いでもそうだと感じます。

講習会や個人指導では、先生がさまざまな導きと示唆をくれます。
それは自分ひとりで自分を見ていたのでは、気づくことのできない視点です。
手渡されたものを持ち帰り、練習を通して、時間をかけて自分の身に付けていく。
その歩みの中で、体への信頼を一つひとつ取り戻していける気がします。