動きながら存在を観ていくほうへ」

 

 

存在の暴力性

 

 

 

存在とは暴力である。

 

出自は忘れてしまったが、感じるところがあったので、その言葉を覚えている。

 

存在は空間を占有する。存在Aのいるところに存在Bはありえない。存在することは、

 

それだけで暴力的な事態なのだ。たしかこういうアイディアで、

 

その暴力性を互いの関係において昇華するのが愛である、とつづいていた。

 

存在は暴力か……。だらしなく本を読むのをやめて、スッと体に注目してみる。

 

すると自分が、目に映るなにとも交わることのない、

 

つめたくて固い量感に感じられた。それがなんとも恐ろしくて、

 

「存在は暴力である」に頷いた。だけどそのときは存在の追求より、

 

その暴力性の昇華のほうが大事だぜ、だなんて思っていた。

 

 

 

はじめての韓氏意拳

 

 

 

光岡先生の講習会だった。なかなか口にするのは難しいはずの、

 

身をもった現象について、さも普通に話をするのでおどろいた。

 

動きのなかでグッと力をつかうのがイケてないのはまだわかる。

 

だけど静かにからだを観察するときにも、感じのあるところをフォーカスせず、

 

むしろ感じのないところを観ていくという。ひととおりの説明のあと、

 

導かれるまま体を観た。

 

背から肘が、腰が、足が、みるみるからだの形があらわれた。

 

それは「存在は暴力である」のときと同じで、からだに帰ってきた感じだった。

 

だけど冷たく固いものではなかった。全身が躍動するようにしびれていた。

 

講義のおかげで、この体感が、

 

生まれてこのかた止んだことのない生命活動のほうへ近づいているのだと思った。

 

それは同時に太古から連綿とつづく生命活動でもある。

 

存在にちかづくことは、個になることであり、個を越えていくことでもあるのか。

 

存在は空間を占有などしていない。

 

必然的には空間と分かつことができないのだと知ったのだ。

 

 

 

地球空間と頭脳空間

 

 

 

ではいったい何故ぼくは、いつも存在自体ではないのだろう。

 

どうしてからだに戻らないと、存在が垣間見れないのだろう。

 

それはいつも過ごしているのが頭脳空間だからだ。

 

流動的かつ超越的に働く高度な大脳がつくりだす、ヒト特有の空間だ。

 

たとえば「あの娘はバラだ」と言う。

 

すると地球空間には表現不能な、

 

あの娘とバラの特徴が重なったものが頭のなかに生みだされる。

 

この知性のおかげで、地球上の存在という、あたりまえの次元を離れた活動ができる。衛星放送とか、ウェブ空間とか、

 

エネルギーだって太陽系には本来ない生産方法でつくれちゃうのだ。

 

いまの人間社会はまるで、現実と想像の表裏も境もないみたいではないか。

 

鶏と卵、どちらが先かの話とは違って、地球空間が先で頭脳空間が後だ。

 

なのに頭脳が拓いた空間はあまりに強力で広大である。

 

からだを通してみえてくる普遍性に導いてもらえなければ、

 

時代や環境に知らずとしばられ続けていたのかもしれない。

 

 

 

武術とはなにか

 

 

 

韓氏意拳に入会し、体験だけでなく初級の講習会にも参加しだして、

 

じつは少し戸惑っていた。武術としての性質が濃くなってきたのだ。

 

ぼくはからだを観たい一心で、武術をやる覚悟などなかった。

 

それらがまったく別のことではないことはわかっている。

 

それでも武術をやっていると云うことに尻込みしてしまうのだ。

 

では、からだを観ることと武術をすることは何が違うのか。

 

その差を見つけたいと思う。まずは武術とはなにかを問うてみる。

 

韓氏意拳の教えをたよりに武術を定義してみよう。

 

すると、武術とは存在を賭して戦うための技術である、となるだろうか。

 

存在を賭して戦うというのは、生死を決めると同義ではない。

 

究極的には生死の決着がついてもよい。だけど武術における戦いの第一義は、

 

存在の純度を測るところにあるのだと思う。

 

「うおおお、全力パーンチ」は地面をぎゅっと踏みしめて存在がぼやけてしまう。

 

「左とみせかけて右からワン・ツーでいくぞ」は頭にのぼりすぎだ。

 

「わたしは社長だぞ」いうまでもない。

 

いかに存在として降り立てているかを認めるのだ。動物や昆虫みたいに、

 

存在から離れることのない者たちと通底する地平。強くなることはそこに近づくことであり、そのための技術こそが武術なのである。

 

 

 

強くなりたい

 

 

 

からだを観ることと武術をすることの差がみえてきた。

 

からだを観るには必ずしも動きが必要ではないけれど、武術には動きが伴う。

 

まったくアホらしいくらい単純な発見だが、自分にとっては大きい。

 

この差のなかで、ウジウジしていたと気がついたのだ。

 

からだを観ると気持ちがいいとか、不思議なかんじがすることにへばりついて、

 

動くことを億劫に思っていた。

 

動きのなかで存在を保つことの難しさにめげていたのだ。

 

ああ馬鹿野郎。

 

それにしても論作文に挑戦してよかった。

 

強さとは、動きながら存在を観ていくなかにある、と云うことができた。

 

「強さに具体的な力やイメージはいらない」

 

ぼくはこの教えを間違ったかたちで真に受けて、

 

強さとはなにかの問いすら捨ててしまっていたのだ。

 

それじゃあ強さを求める道に入れるわけがない。

 

動きには型がある。手本には先生がいる。心配せず、望んでいいのだ。

 

ぼくは武術をつうじて強くなりたい。

 

 

 

状態のなかへ

 

 

 

先月の講習会で鹿間先生にいわれた。

 

「状態にはいるところまではわるくないけど、動き出すときに切れてしまう」

 

家に帰ってから動きを観察してみた。

 

状態に入ってフツーに手を前に出す。

 

「ん、ちょっとグラついた?」

 

手を引き寄せる。

 

「フー、安定した」

 

前に出す。

 

「やっぱりグラついてる」

 

ためしにスピードをあげて動きを繰り返す。

 

グラグラグラグラ。

 

今度はぜったいグラつかない。そう決めて、ゆっくりゆっくり手を前に出す。

 

「おっいいぞ」

 

ゆっくりゆっくり引き寄せる。

 

「うんうん」

 

また前に出す。

 

「ほおほお」

 

繰り返す。

 

「あ、状態のなかで動くってこういうこと!」

 

速さのなかでは状態の観察がむずかしいので、ゆっくり動く。頭では知っていた。

 

やってもいた。けれどゆっくりの意味や価値が行いの外にあったのだ。

 

長いこと無意味な方法でやっていたショックや、

 

単純な手の動きにすら自分で崩れてしまう低レベルさに傷ついている。

 

だけどここから、動きの質が変わっていく予感はそれより嬉しい。

 

 

笹井 信吾