「悪霊払い:私にとっての韓氏意拳」

さかのぼる事4年前、2012年の年明けまもないある日ふと、
「武術をやろう」と思い立った。 まだ息子も1歳数ヶ月であまり手がかからないし、
以前習っていたフラメンコをやめてから、
特に体を動かすようなことをしていないというのもあったが、
それよりも「私は武術をやらないといけない」
というのがアラームみたいに自分の中で鳴っているような、
切羽詰った感じがあった。 ただ、それまで武術・武道を習った経験は全くなし。
かといって空手や柔道、剣道、合気道など、
自分でも名前程度は知っているし
身近に教室があるものを習う気にも、なんとなくならなかった。 もうちょっと違ったものはないかなあ、
と調べていると、
たまたま在住市内で居合の指導をしているのが分かった。 居合という言葉自体それまで聞いた事さえなかったが、
これならいいかも、と早速練習を見学に行き、
その勢いで始めることにした。 居合を習い始めてからは、
興味本位で図書館で武術・武道関連の本を借りて読んでみるようになり、
そうした中で光岡先生と甲野先生の共著の
「武学探求1&2」を手に取った。 この本の中で初めて韓氏意拳というものがあることを知り、
気になったので尹さんの書かれた「FLOW」も読んでみた。 ただその時は「いつかどこかで、やってみる機会があるといいなあ」
と思いながらも、そのままにしていた。 その年の暮れ、息子の父親が亡くなった。 彼は生前私に対し、
「だら~っとリラックスして魂がぬけてるんじゃなく、
かといって緊張して固まっているのでもなく、
いつだってパッといけるように気を張っておくんだ。猫みたいに」
と言ったことがあった。 それを聞いた時は、どんな状態のことを言っているのか、
何を言いたいのかが全くわからず、 心の中で
「この人は小さい頃から武道をやっていて、
かつ自分の身を守る必要があった環境にいたから、
そうゆうことを言うのだろう。
私は平和ボケした日本で生まれ育ちましたから、
どーせわかりませんよ」と、
ひねくれて結論づけをした。 でも、いざそれを言った当人がこの世からいなくなってしまうと、
過去の発言が気になってくるもので、
「猫みたいに」っていうのがひっかかり始めた。 そこで
「そうだ、あの本にでていた韓氏意拳というのをやってみたら、
何かがわかるかもしれない」と、これまた思い立ち、
たまたまタイミングもあったので、
朝日カルチャーセンターでの
駒井先生による韓氏意拳体験会に参加した。 その時具体的に何をやったかの記憶はあまりないが、
なんだか狐につつまされたような
不思議な感じだったのが印象に残っている。 引き続き光岡先生が「荒天の武学」について公開トークをされた時にも伺ったが、
その際先生は
「人間ってほんとに死ぬのかなあ?死って共同幻想のような気がするんですよ」
みたいなことをおっしゃっていた。
それを聞いて私は、光岡先生が自分の「先生」だったらいいのになあ、と感じた。 この流れで今度は5月に開催された
韓先生の来日講習会にも参加してみた。
その時、韓先生は参加者一人一人を回りながら見てくださったが、
站椿の練習の際に先生は私の手を取ると 「不安がっていますね、怖がっています」とおっしゃった。 先生のおっしゃる不安ってなんだろう、
私は何が怖いんだろう、何で手があがらないのだろう? その訳が知りたくて正式に入会し、今に至る。 始めてから最初の1年くらいは講習会に行っても、
先生方の言う「状態」も、よくわからない。
自分は何をやっているのか、
いつだって頭の中は?マークだらけだった。
かといって先生方に何をどうやって質問したらいいのか、
うまく言葉にも出来ずに過ぎていった。 3年近く経ったここ最近、
気がつくと純粋に「楽しいなあ」とか
「もっと練習したいな」と感じるようになっている。 なんで?と聞かれたら自分でもこれがまた、よくわからないし、
うまく説明できない・・・。 ただ、どうして自分が
あの当時武術をやらなければという思いに駆られたのかは、
わかった気がする。 それに気づいたのは村上春樹さんのエッセイを読んでいて
「自分がマラソンをするのは悪霊払いをするためだ」
というような文を見つけた時だ。 息子の父親と暮らしていた時、
彼に殴られた事が何度かあった。 もちろん殴られたら痛いしイヤだし、
暴れている人間を前にするのは怖い。 でも殴る行為そのものよりも怖かったのは、
人間の奥底にある、暗闇のようなところだったのかもしれない。
それこそSTAR WARSでいえばダークサイドというか、
得体のしれないドロドロした沼みたいなものに、
いとも簡単に引きずりこまれてしまうような、自分自身の心もとなさ。 でも、そんな状況はいつ来るかわからない。
もし、また直面しなくちゃいけなかったら?
自分は正気でいられるか?
頭で色々あれこれ考えて収拾つけようとするうちに、
自分は抜け出せなくなってるんじゃないか。 そうならないためには、
何があろうと元に戻ってくるには、
武術をやるしかない、というのが、
自分にとってのある種のお告げみたいなものだったんだろう。 ただ、それはパンチやキックとか出来るようになって、
どんなに殴られそうになっても殴り返せる、
身体的に攻防できるようになりたい、のではない。 (そうなれたらかっこいいかもしれないけど) 光岡先生はよく
「足腰さえしっかりしていれば」
「前じゃなくて後ろ、上じゃなくて下にあれば80%くらいは大丈夫」とか
「昔の人は根拠のない自信があったから」とおっしゃる。 多分その「根拠のない自信」、それこそが自分が知りたかったもの、
そして得たいもののような気がする。 どんな時も、ちゃんと自分のままでいられるのか、
そうやっていつも生きていけるのか。 韓氏意拳はそれを「頭だけ、もしくは体だけ」で
分かったような気にさせる、のではなく、 私という、今生きている人間そのもの全てを相手に、
教えてくれるもののように思う。

佐藤千晴

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