「韓氏意拳 ~ジワジワくる楽しさ~」
初めまして。
私は静岡で農業をやりつつ、3年前から光岡先生と守先生の下で韓氏意拳を学ぶ者です。きっかけは甲野善紀先生の講習会に参加した際、
甲野先生から光岡先生という凄い方がいると伺ったことです。
ドラゴンボール世代の私は
「強い人がいる」
と聞くと無性に会いたくなるのです。
とりあえず光岡先生のHPを探して文章を読んでみました。まったく分かりません。
「武学探究」を読んでみました。HPよりは分かった気がします。
禅や老荘思想といったものが関係しているということは何となくわかりました。
今まで武術も習ったことがないし、中国思想にも詳しくなかったのですが
分からないことだらけでモヤモヤしていたので
思い切って光岡先生の講習を受けることにしました。
(今考えると武学研究会が始まる直前の時期で、
その後の光岡先生の思考の変遷をある程度立体的に眺めることができた
ラッキーな時期に始められました)
初めて講習を受けてみて衝撃を受けたのが試力で、
上手くいったときに「実感が無い」ということでした。
「どうしてこういった練習体系になったのか?」
というメタレベルの学習が要求されることと
特に激しい運動をしたわけではないのに疲労感が残ったことも印象的でした。
その後幾度か講習を受けたり自分なりに站椿の練習をしていく内に
日常での動きがスムーズになってきた気がしてきたのですがそれが
韓氏意拳のおかげなのか関連性がわかりませんでした。
またしばらく講習を受け続けるうちに
「実感のないことをどうやって練習するのか?」という疑問が浮かんできました。
筋トレなどと違い「やった!!」という達成感などが無いため、
先生方から「良く練習しているね」と褒めていただいたりしても
褒められてる実感もあまりありませんでした(笑)
現在は内観法(予備式)や三元分立を教えていただいたことにより
方向性は何となく見えてきました。
最近ようやく”韓氏意拳が方法論ではない”ということの意味が何となく分かってきて、
メソッドでないものを習う
面白さを感じるようになってきたのですが、
ふと「怖さ」を感じる瞬間もあります。
それは方法論ではないということは答えがないということであって、普段から手段、
マニュアルに慣れた私には何も無いところに放り出されたかのように感じます。
もっともこれは農業も同じで、
本来答えが無いところに自分勝手な理論をあてはめてしまっているということを
再認識できたという意味ではありがたくもあります。
試力をしてくださっている先生もふいに”いなくなる”のも恐怖です。
しかしこれも日常でのコミュニケーションの
ありがたみをひしと感じられるきっかけになりました。
自分の中での今後のテーマは2つあります。
1つはこの韓氏意拳がどのように拳法として成立しているのか理解する、ということ。
もう1つは「どうなればいいか」は分かっても
「どうすれば良いか?」が分からない、そもそも
「どうすれば」というアプローチが正しいのか分からないのでその辺を見極めていく、
ということです。
最後に韓氏意拳の魅力ですが、
ただ立って手を挙げるということの中に
とても広くて深い世界があったということを感じられるということです。
最初は「光岡先生とはどのような方なのだろう?」という興味で始めましたが、
次第に「自分の中に何があるのか?」という方に興味が向くようになりました。
このような世界を垣間見せていただいた
韓氏意拳の先生方にこの場をお借りして感謝申し上げます。
ありがとうございます。先生方、今後ともご指導よろしくお願いいたします。

 

和久田 行哉