「韓氏意拳あれやこれや」 和久田 行哉

 

名古屋、浜松で光岡先生、守先生から韓氏意拳を学んで気づけば4年がたちました。
その中で教わったこと、気づいたこと、以前はこう思っていたが実は違うのではないか?と思ったことなど
たくさんあり、テーマがしぼれなかったので今回は箇条書き形式でいくことにしました。
<なぜ”なにも無い”が大事なのか?>
「からだ」を観ていくとき、光岡先生に肘の内側、右前など何もないところを観るよう言われることがあります。
例えばギプスで肘を固定されると肘の内側や周囲には石膏が「ある」のですが肘は動かせなくなります。
「なにもない」から運動がおこりうるのであり、「ない」は可能性なのだと思います。
(物理学でもディラックの海、ヒッグス機構などの例に見られるように
物質をすべて取り去った空間も何かを生み出すポテンシャルを秘めており
、永遠に何も産まない、空っぽのままで居続ける
「真空」という概念は放棄せざるを得なくなると思います)
<ヒモトレと型>
去年、小関勲先生に2度浜松に来ていただきヒモトレの講習を受けました。
ヒモの利点は、それがはっきりと「型」、「自分ではないもの」と認識できる点だと思います。
脱着が容易なので「自分」と「ヒモ」を混同することはないのです。
当然といえば当然ですが、そもそも人は常に何らかの型をともなって存在しています。
これが「立つ」「歩く」などの単純な型だけなら自分と型との違いがわかりやすかったのでしょうが、これに
「スマホを操作する」「車を運転しながら同乗者と話しをする」
「会社でプレゼンを行いながら上司の反応を見る」「部下のプレゼンを聞きながら資料も読んで質問を考える」
などの(社会的立場なども含めた)膨大で複雑に絡み合った型をともなうと混乱が起こり
「自分があるから型を行える」ことや「自分と型との距離感」などがわかりづらくなるのだと思います。
ヒモトレで面白いのは、「ヒモを巻いている」と意識できるほど強く締めると効果がなくなることです。
自分と型との距離も、はっきり意識できるほど離れないほうがいいのかもしれません。
ヒモトレのおかげで型稽古を違う角度からとらえることができました。
<「今」と自分  -そもそもなぜ「からだを観る」ことが稽古になるのか?-  >
最近読んだ本(意識は傍観者である)に書いてあったのですが
鏡に移った自分の姿の右目を見て、それから左目を見ると左目はずっと静止していたように見えます。
視点を変えたことによって左眼球も動いているはずなのですが、それは見えません。
意識に上った感覚は時間的にも編集されていて、「今」を捉えてはいないようです。
このように知覚で認識できない「今」で何が起こっているかを想像すると、まず運動は「今」で起こっているはずです。
知覚の元となる「何か」も「今」にあるはずです。「今」では運動と知覚(の元)が分離できない可能性があります。
そして運動知覚は「からだ」で起こるはずです。概念化された身体、ではなく「からだ」に注目することによって
本来一体であるはずの運動知覚が働くのではないかと私は考えています。
しかし常識的な考えでは身体をモジュール化して
眼や皮膚などの知覚系に信号が入る ⇒ 脳などの神経系が信号情報を処理する ⇒ 腕などの運動系に動作信号が送られ、運動が起こる
ととらえており、実際わたしたちの日常の動作も
「ボタンを目で見たから押す」「人に呼ばれて振り向く」と知覚が先にきていることがほとんどです。
普段の生活ではそれで事足りるのでしょうが、切羽詰まった状況では知覚の認識から行動までにタイムラグが生じて
それが致命的になるかもしれません。
初めて韓氏意拳の稽古に参加した方は試力を体験したときに必ずといっていいほど「!?」という表情をされますが
(表情こそ変わってないでしょうが私はいまだにそういう感情が湧いてきます)
これは知覚入力→行動という慣れた世界から飛び出したことによる驚きなのかもしれません。
<名古屋での自主稽古会に参加するようになって>
去年の暮れに愛知分館世話人の河合さん主催の自主稽古会に参加しました。
そのとき試力で押さえる方をやったのですが、相手の方が「状態」に入っていなくても
(具体的には足元がぐらついたりしてバランスが崩れていても)動いてしまったりして
試力で押さえる側を行うことの大変さ、試力という2人型を成立させることの難しさを感じました。
ここでふと日常生活の様々な動作を見渡すと、多少の引っかかりを感じても
力ずくで強引にやれば何とかなってしまう、言ってみれば「成立していない試力」であふれていることに気づきました。
私は普段の仕事は農業をしていて軽作業から多少力のいる作業が多いので特にそう感じるのかもしれません。
試力で面白いのは韓氏意拳を習い始めて間もないころ、一人で挙式を行っているときは「手をあげることが何で武術の稽古なんだろう?」
と疑問すらおぼえていたのに、先生に手をおさえられて挙式を行おうとすると「手を挙げたい」という目的意識や
「挙がらなかったらどうしよう?」「挙がらないとくやしいな」などの気持ちが湧いてきたことです。
稽古の場では自分のこういう部分を抽出して見つけることが可能ですが日常生活、社会生活ではどうしても目的が先行するため
引っかかりを無視して行動に自分をあわせようとしてしまうのかもしれません。
私の当面の稽古目標は「稽古で得た違和感、引っかかりを日常での引っかかりをさがすヒントにする」「日常を下手な稽古場にしない工夫をする」です。