韓氏意拳がもたらす心理臨床の新たな視点

 

 

  韓氏意拳と出会ってからまだ日は浅いが、

その追求されている内容は心理学的・精神医学的問題と向き合うための

画期的なアイデアを生み出すためのきっかけ となり、

また心理臨床家としての自己修練のための重要な視点であることを強く感じた。

心理臨床における韓氏意拳の寄与について考えてみたい。


 私は、子どもの頃から運動が苦手だった。

走っても、泳いでも、ボールを投げても、

自分が他のクラスメイトより劣っていることで目立つのがつらくて、

身体を動かすことに段々と消極的になっていった。


 学校を一通り卒業し、体育の授業がなくなってしまうと

運動に対する劣等感もそれほど感じる必要もなくなり、

どこかで解放感を感じたのを覚えている。

とは 言え、それまでに泥のように集積した自分の身体に対する

深い不信と漠然とした憎しみは、何によっても掃き出されることがなかった。


 そんな中で臨床心理学に興味を持ち、学び、

カウンセリングや心理療法などを行う職に就いた。

様々な心理的課題や困難を抱えた人々と出会っていくうちに、

身体性に目を向けざるを得なくなった。

仕事のストレスで髪の毛がすっかり抜けてしまった人、

家族関係の不和から背骨が大きく歪んでしまった人、

表情が完全 に固まっている人。

実際にその相互関係を目にすることで、必然的に自分の身体観と向き合うことになった。


 というのは、例えば、生活リズムが大きく崩れている状態で

問題と向き合うことは難しく、まずは日々の生活の見直しから始める場合が多い。

支援を必要とす る人と相対して、何を優先して扱うべきなのか、

どこへ向かって進んでいけばよいのかを考えていく上で、

身体に対するアプローチは欠かせない。

しかし、自分 自身の身体そのものに懐疑的であると、

当然のことながら自信を持って全力で支援することはできない。

「身体症状は自分への無意識的メッセージです」といく ら伝えても、

どこか真剣さに欠けてしまう。

したがって、被支援者に対して身体の重要性を示すために、

まずは自分の身体を見つめ直す必要が出てきたわけである。


 こうして心身の関係について思案している時、韓氏意拳と出会った。

講習やいくつかの書籍の中で、力は必要ないこと、競わないこと、

優劣や正誤は関係がな いことなど、その前提や学理に示されている内容に感銘を受け、

これなら自分でもできるかもしれないと、

運動に対して消極的であった私がようやく重い腰を上 げることができた。

中でも、韓競辰導師の来日講習会は衝撃的であった。

生命の勢いとでも言えばいいのか、その溢れるようなエネルギーに、

近くに立っているだけで圧倒的な影響を受けた。

筋力を主題としない武術によって、これほど身体を洗練することが

できるのかと度肝を抜かれた。


 韓氏意拳を通じて自分の身体を見ていくことで徐々に明らかになってきたのは、

自分の集中力のなさである。

ただ手を挙げる動作に集中するだけなのにもか かわらず、どこかで注意が逸れていたり、

不自然な意識的動作が割り込んでくる。

普段用いている身体感覚とは全く異なる視点から自分の身体を見た時、

そこには 取り組むべき多数の課題を含む深遠な世界が広がっていることを

おぼろげながら感じられるものの、その感覚は長続きせず、

様々な意識やイメージの動きにとら われて散り散りになっていくのだ。

集中するとは一体どのような状態なのかという問いを、改めて考えることになった。


 ただ、その新たに発見された課題は、確かに心理学的問題を抱える

心身が取り組むべき課題とつながっているように思われる。

なぜなら、不安定な心身の状態 から脱しようとする時には、

往々にして問題解決のための安易な方法論や善悪の裁定に走ってしまい、

その時に生じ続けているリアルタイムな心身の状態を、

集 中して仔細に観察することが極端に難しくなるからである。

カウンセリングの中で、

「今すぐこの不安を解消してほしい」、「あいつが悪い。あいつさえいなけ れば」と、

何度訴えられたか分からない。しかしそうした短絡的な因果関係から出発して、

問題の背景にある大きなテーマに気付いていくというプロセスもまた 大切である。

その少しずつ自分の問題を問い直す作業によって見出していく当人固有の自然な状態が、

韓氏意拳の求める「純粋自然・自然本能」とどこか重なる のではないだろうか。

したがって、

ただ手を挙げることに集中する行為と、

自分の身に起こっている様々な問題に改めて集中して問い直す行為は、

どこかで通じ るのかもしれない。

このことは、光岡英稔導師(2015)の

『できることと言えば言語や言葉、文字などのバーチャルな世界で

「人は二足で立てている!正し い二足の立ち方、手足の動かし方」等の答えから

「私は本当に二足で立てている?」問いへと移行し、

「私の手は自由に挙がるものである、動かせる筈である」 から

「私の手は本当に挙がるのかな、動かせるのかな?」等の“問い”へと移行することである』

という指摘からも感じることである。


 もしそうであるとすれば、ますます自分自身の韓氏意拳の訓練が

重要となることは自明である。

集中力を鍛錬し、自分の身体への新たな問いや課題を発見して 取り組んでいく作業が、

そのまま「純粋自然・自然本能」を考えていくことになる。

その中で少しずつ見えてきたものをもって支援することで、

ひとつひとつの 言葉に真実味や真剣さが出てくるのだろう。

また、修練によって培った集中観という視点で問題を見た時、

それまで当然だと思っていたことに対する根本的な問 いへと転換し、

問題解決への新たなアイデアを引き出す端緒となるものと考えられる。

もちろん、韓氏意拳そのものが直接何かをもたらすというわけではなく、

新たな問いを発見していくその過程、あるいは身体から示される自然な動きを

追求していくその道程に何らかのヒントが隠されていると考える必要がある。


 以上のように、私にとって韓氏意拳は心身の問題に取り組むためのアイデアを

つかむための修練であり、「自然」に気付くための視点を再確認する照査の意味 がある。

心理臨床という分野から見ても、

韓氏意拳には大きな意味と問いかけが含まれていると確信している。

また一方、韓氏意拳の教授法である『手把手』 は、

心理療法と相当つながるところがあるのではないかと考えており、

今後自分の課題にしたいと思っている。

まだまだ入り口に立ったばかりだが、

これだけの 深みを持つ武術に出会えたことを感謝したい。

 

 

長田岳大


・引用文献
光岡英稔(2015)「手を挙げ、動かすことの実践とは!?」,

『月刊秘伝』2015年3月号,p.36,BABジャパン

 

 

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