「韓氏意拳を学んで、韓氏意拳とアボリジナルを考えてみた」

 

 

韓氏意拳を学び始めてから7年くらい経つのだろうか・・・?

 

それにしては身体がついていけてないですが、
それでも続いていて、自分なりに好んでいる事実がある、とう事は、
それはそれでマイペースで良いの かな、と思っていたりもしてます。
講習に行きにくい環境というのを言い訳に、
なぜか自主稽古もさぼりがちになっているけど、
ふっと自主稽古を少しでもやっ てみると、あぁ、なんか、いいなぁ。。。
とシンプルに思うのです。

 

 

私にとって韓氏意拳は、「武術」を学ぶというより
「武を通して自分の在り方を学ぶ」というような感じがしています。
これは、生きている間は終わりが無い学びと思ってやっています。

 

 

自然とは何か、今生きているってどういう事か、というリアルな大前提の現実を、
武を通して、自分を通して学ぶことで、私なりにですが色々と気付かされ続けています。

 

 

「自分の事は分かっている」と思っていた事が、自分のほんの小さな一部でしかなかった事や、同時に目の前にある世界はそこはかなく広くて深いものだと気付かされると、ワクワクもしてきます。
わからないけどそんな広い世界がある、という事を認識すると、とても視野が広がってくる気がします。その深くて広い所では、実にさまざまな物語が繰り広げられていて、それらの出来事がつながりあってその中に自分もいる、というようにも感じられます。
また、とても個人的な事なんですが、私はディジュリドゥというオーストラリア北部のアボリジニに伝わる民俗楽器を好んで吹いています。そしてアボリジニの文化や習慣、自然観についても、とても興味があります。

 

 

私の住む屋久島では、よく「人と自然との共生」とか、「生物多様性保全」とか
「自然」をキーに様々な言葉が述べられていますが、
ここで日本社会 がいう自然と、アボリジナルの
(とはいっても私の知る所でしかなく私目線なのでとても一部で一面でしかないのですが)自然観とでは全く違う感覚です。

 

現代日本人にとっての自然は目に見える自然で、
アボリジニたちは目に見えない自然(の現象の力)に重きを置いているようです。

 

彼らはその事を「ドリームタイム」と呼んだり、「大地」と呼んだりして、
「すべては「そこ」からやってきたんだ」と言ったりします。

 

自分たちが生きている生命現象も、自然現象の一つであり、
世界の始まり、はるか昔から今に至るまで、
変わらずにずっと働き続けてくれている「法」の上にこの世界はできていて、
我々の生命現象もその「法」の上に置かれているにすぎない。という事かと思います。

 

例えばそういう目線からは
「この「砂」と呼ばれている物も「人」なんだ」という長老もいます。

 

目に見えているものよりも、
それをそうさせている(目に見えない)力、働き、の方に重きを置いている、
という事です。
また、これまた私見に過ぎないのですが、
彼らは時々ボーっとしていたり、ゴロゴロしていたりするのを目にしますが、
日本の現代社会的にみると、 とても怠け者的に感じたりもありますが、
おそらくあれは意拳でいう体認や状態をみているのではないか。
そして身体の声を聞いて(というか反応して?)眠い 時は寝て、
気が向かない時は行かない、という自分の体に素直に向き合っているまでな感じがします。

 

それは自然体なので考えてする、というより、普通です。

 

そして時として、明日の約束をしても、明日になると、
「いや、明日だ」となることもあり、気分屋とも言えますが、
身体が(脳ではなく)何かを察知していたり気配を感じているのかもしれません。

 

とにかくその時の身体の気持ちに正直である事は、
より健やかで自然で、自分(の気持ち)に責任を持った行動が
とれるのではないかと思います。

 

 

人と自然との共生という地点で、人と自然を分けてしまっている気がしますが、
それでもあえてそう言うならば、アボリジナルのような自然観であり、私達の現代社会に
とっては、それこそ、韓先生のおっしゃる「自然は一つです」の自然であり、
「運動」に注目することなのか、と思っています。

 

 

でも、、、今後またこれらの考えも変わって行くのかな。。。とも思っていたりします。

 

 

加地英史