「韓氏意拳に出会って」


●始まり

韓氏意拳に出会う前、私は武術とはまったく無縁でした。
本を読んで韓氏意拳の存在を知り、
体への問いかけを通じて自分自身を知るという理念に惹かれ、
興味を持ちました。 私が韓氏意拳の関連書籍を集中的に読み始めたのと同時期に、
ウェブマガジン「やさしい韓氏意拳入門」の連載が始まり、
それも併せて読みます。解説のわかりやすさと、
そのわかりやすい表現に至るまでの道のりの長さとが、
一緒に伝わってきました。 この文面の背景には、途方もない“わからなさ”が広がっている。
それがどんな風景なのか、自分自身で体験して見てみたい
――そんな想いが湧きました。 東京講習会へ体験参加しに行き、
やってみたいけれど一人での練習の仕方がわからないと伝え、
指導を受けて「とてもいいです」「できます」と言っていただきました。
それから自宅での練習を始め、韓氏意拳学会への入会を決めます。
●ただ動くという体験 入会直後に参加した養生クラスで健身功を教わり、
動いてみたときに、
それまでになかったような純粋な楽しさが訪れました。 小中学時代、私は人より運動ができませんでした。
体を動かすのは嫌いだとずっと思ってきました。
けれど、このとき初めて、動くことが好きかもしれないと思いました。 目的を持たず純粋にただ動くことは、
こんなにも楽しくて気持ちのいいものだったのだと、
新鮮であるとともに懐かしい思いがしました。
それは、かつて味わったことがあったはずなのに
長い間忘れていた感覚なのかもしれません。 運動嫌いを克服したいという動機で始めたわけではありませんが、
「自分は運動に向いていない」という
長年の思い込みから解放されたのは嬉しかったです。
今はすでに思い出せない、
幼い子供の頃の自分に一瞬だけ戻れたようでもありました。 ●講習会の場で感じたこと 講習会は一回一回がライブのようです。
動きを交えながらの説明はエネルギッシュで、
自然と場に引き込まれます。
先生の伝え方は全身表現だから、
私も体全体で受け取ろうという気持ちになります。
講習会の翌日、丸一日余韻が続いたこともありました。 面白かったのは、他の武術経験のある受講生がいるときに、
状態のある構えでタックルを受けたらどんな動きになるか、
推手で手合せしたらどんな動きになるかを、
実演で見せていただいたことです。
韓氏意拳はとても表現が多彩で対応性が高いのだと感じました。 一つひとつの言葉がなじみ良く入ってきて、
話の内容もとても面白いですが、それ以上に、
言葉ではない形で自分の中に残るものが大きいと感じています。
体は確かに何かを受け取っているのだけれど、
頭での解読が追いつかないような何かです。 そんなとき、頭の私とは別に、
普段は意識しない体の私が存在することを感じます。 手伝えによって動きの質を体感し、
体の内から新しい動きと感覚が芽生える瞬間を共有できるのも、
参加していて嬉しいことの一つです。 ●表現すること 韓氏意拳の自然観でとりわけ印象強かったのは、
その行いが自然であるかどうかは、
表現してみて初めて分かるということでした。
最初から決まった正しい動き方は存在しない、
ただ自分が持っているものを表現すればいいと。 自然は絶えず運動し続けて止まることがなく、
その運動状態にある自然を体認することが韓氏意拳の根本であるとするなら、
「自分自身とは何か」という問いへの答えも、
自分が生きていく流れの中で遭遇しうるものなのだと思います。 わからなくても行動を起こして、
学習の場に身を投じたいと思いました。 意拳と直接関係ありませんが、
私はもともと引っ込み思案でほとんど喋らない人でした。
それが講習会に参加するようになってからは、
積極的に対話を楽しむ自分に変わりました。
表現が命である場に参加するのだから、
聞きたいことは聞いて、
感じたことは伝えようと思ったのです。 講習会・個人指導では休憩や昼休みを兼ねて
話せる場を設けられることが多いですが、
それは私にとって稽古と同じくらい大事な時間です。 講習会後の忘年会で宴武会をやりました。
経験の多い人も少ない人も、
今の自分を表現することはみなが等しくできると感じられて、
楽しかったです。
自分らしさは探し求めるものではなく、
表現するところにいつでもそれはあるのだと思えました。 ●わからない自分に向き合う 韓氏意拳の練習を始めてからは、
自分で自分のことがわからないという事態に向き合う日々です。 習い始めのときにまず突き当たったのは、
「状態って何?」というところでした。
説明は理解できても体現できないのです。 講習会で先生が実際にやって見せるのを目の当たりにすると、
状態が確かにそこにあるというのがものすごく伝わってきました。 けれど自分自身でやってみると、
状態があるかないかの差は本当にかすかなものに感じられ、
添えられている手がなければ、
自分が今できているのかいないのか心許なくなります。 私が私から離れないでいるための3つのポイントを教わりました。
これもシンプルなのに最初は苦心しました。 私が足裏の感覚と思っていたのは地面を感じているのであって
自分の足裏を感じているのとは違うと知ったときは驚きでした。 概念の手足と感覚の手足は違う。
本当の体を感じられているか
――今でも確信を持って「わかる」と言えません。 できているつもりでいてもできない。
わからないままにやっていると不意にできる。 「私は私」だと今まで思っていたものはいったい何だったでしょうか……。 受講中に先生の前で動いてみると、
少しだけ進歩したところも、
自分のできなさ加減やわかっていなさ加減も全部出ます。
でもそのとき私は、飾らない、
良く見せようとする必要のない自分でいられている気がします。 ●武術との縁 韓氏意拳の基本動作は難しくも激しくもなく、
最初は武術的なものに触れているという実感があまりありませんでした。 けれども何度か講習会を受けるうちに、
韓氏意拳は紛れもなく武術の体系なのだということを肌で感じました。
先生の動きを見たり、
なぜ手足がこの配置なのかといった説明を受けたりすることを通してです。 自分が武術をやることなど考えもしなかったのに、
武術に触れる機会を得て、次第に惹きつけられていきました。 意拳の世界をもっと深く知りたいです。
なぜ私は韓氏意拳と縁ができたのか、
その縁がどこへ繋がっていくのかも知りたいです。
それは実際に武術を体験していく過程の中でしか
見えてこないと感じています。 武術に何を求めているかと問われても、
これと言える答えはありません。
でも私は今、未体験の世界に導かれていくのが楽しくて仕方がないのです。
若生未来